歴史
誕生前夜
戦後から1960年代
戦後、福音的な立場に立つ諸教会は、自由な活動を行っていたが、同時に一致と交わりを求める声もあった。それは日本福音連盟などの連絡・交流機関を生み出したが、 1960年代に入るとさらに、日本における福音派を全体として代表する窓口、機関を求める機運が高まった。 1964年1月20日、当時を代表する5つの超教派的な機関が、山王ホテルにて集まり、話し合いが行われた(写真)。この懇談会はその後も何回か行われたが、緊密な連絡と交わりの実施、協力事業の推進が確認された。
1967年 ビリーグラハム国際大会
そのような中、東京の日本武道館においてビリーグラハム国際大会が開催された(写真)。この大会は、延べ20万人の会衆と1万5千人の決心者を与えられ、大成功のうちに終わったが、同時に、聖書信仰に立つ日本の教会が、広く協力して行われたものであり、日本福音同盟の設立に向けてさらに大きく前進する力となった。
1968年 設立総会
3回の設立準備委員会を経て、1968年4月29日の午後、お茶ノ水キリスト教会館にて設立総会が開かれた(写真)。常葉隆興師が議長に選出、羽鳥明師により規約案が朗読され承認された。この後、共立講堂にて記念大会が開かれた。大会では、羽鳥師司会の元、宣言文が発表されて、各方面からの祝辞、記念講演が行われた。その中で、本田弘慈師はこれは神のみこころであり、聖書信仰に立つものであり、宣教の前進のためであることが強調された。千数百名の参加者の元、日本福音同盟は記念すべき第1歩を踏み出した。
第1回日本伝道会議の開催
1970年 構想から推進へ
1972年の6月伊豆の天城山荘において、JEA主催の第1回宣教懇談会が開かれた。 2週間にわたって230名の参加者を集めて、これからの日本宣教のあり方が、交わりを深めつつ模索された。羽鳥明師による主題講演「危機に立つ日本の教会」や、「日本の教会はなぜ成長しないのか」と題されたパネルディスカッションのあと、安藤委員長により日本伝道会議の基本構想が正式に発表された。 1973年6月、淀橋教会にて行われた第5回JEA総会にて伝道会議の基本計画が承認された。実行委員会のもと、場所の選定、スケジュール、プログラムなどが具体的になる中、各地で協力会が誕生し、祈りによって、組織的に準備が推進された。開催場所は、祈りと検討の結果、美しい緑と水に囲まれた京都会館に決定した。
1974年 第1回日本伝道会議
1974年6月3日、歴史的な伝道会議がはじまった。その日の午後にはじまった受付には、北海道から沖縄まで全国から、さらに海外からの参加者が手続きを行った。期間中、ジョン・ストット博士による聖書講解をはじめとする全体集会、本田弘慈師による伝道大会、また一般分科会や専門分科会などが行われた。 6月7日、5日間にわたる伝道会議は最後に「京都宣言」を出して終了した。
その後の動き
1978年 10周年記念行事
1977年6月に開かれた第7回総会で、10周年を記念する行事が決議されました。その決議に基づき、記念大会が実施され、また10周年記念誌(写真)が発行された。
1980年 ビリーグラハム(後楽園)
1982年 第2回日本伝道会議
記録写真集 宣言文
1991年 第3回日本伝道会議
1994年 ビリーグラハム(東京ドーム)
この年の1月13日から16日かけて、後楽園の後に建築された東京ドームを拠点に、ビリーグラハム博士をお招きしての伝道大会が開催された。一年以上にもおよぶ準備期間を経たこの集会では、衛星中継による全国各地の集会を合わせて、延べ15万人の参加者と5万5千人の決心者を見た。
2000年 第4回日本伝道会議
6月27日~30日、沖縄県宜野湾市にある沖縄コンベンション・センターを会場に、開催された。 この会議には、諸外国からの招待客も含め、日本全国から約2,300人のクリスチャンが参加し、歴史的転換点において、21世紀の日本における福音的教会のあり方、方向性を模索しつつ、一致と協力を見出そうとした。この伝道会議の後、引き続き沖縄で行われた第15回総会で、世界青年宣教大会の開催が決議された。
2003年 世界青年宣教大会(SSST青山)
8月12日~15日に置いて青山学院大学において開催され、全国から2,000人の青年が参加する大会となった。午前と夜の全体会議のほか、日中は分科会が開催された。
2009年 第5回日本伝道会議
9月21日~24日、北海道札幌市の札幌コンベンションセンターにおいて開催された。